on ホカノヒトの悲しみ
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世界で最も悲しいこととはなにか、
とほんの少しだけ
思いを巡らせてみると、
考えた分だけの、相応する答え二つが返って来た。
それは伝えたいことが言えないでいること。
愛している人の悲しみを感じること。

それは例えばデザイナーのアイデアをアシスタントが
共有できないことや、いつもは二律双生の恋人達が
互いに自分が正しいと思っていることが伝わらない時に
最も顕著に感じられる。
後者にいたっては、もらい泣きに代表される
感情移入が、大切なヒトのことになる時ほど超過度
になることが言える。


これは死について同様なことが言えると思う。

人が亡くなって、最も悔しくて悲しいこととは、
もうその人とはこれまでごく普段通りに交わしてきた
平凡な会話すら、することができなくなることだと思う。
誰もが予期せぬ死であればあるほど、あれやこれやと
生前に伝えたかったことが心に残る確率が高い。
そんな残された想いの残像を抱えて生きていかないと
いけないことに、絶大な悲しみを感じる。

自分はおじいちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんが
亡くなっている。最も最近では去年の二月といったところだろうか。
その時は不思議と、これっぽっちの哀愁も感じなかったのだ。
5、6年前に寿命を迎えた、ペットのモルモットの死の方が、
強いて比べるとしたら悲しかったと思う。

まず後者から。
うちのモルモットは病気や腫れ物が起因して命を落とした。
その時はおもむろに泣いていたのが記憶に新しい。
彼女は普段は支えられている、柔軟な躯体が自力で支えられず、
四本の足が伸びきって地面に横たわっていた。なんとも非力な
余力を最後に振り絞って立とうと試みるものの、毎回持ち上げて
あげてもげんなり、ぐんにゃりのびてしまった。あの小ささで
自分の存在を保ち続けるのはさぞかし苦痛を伴ったのだろう。
次に前者。
祖父の寿命が残り短いと知り、容態が急変して病院に呼び出された時、
自分が最初にベッドに横たわっているてのひらを触ることが出来たの
だが、彼は既に心肺機能が停止しているとはいえ、冷え性の自分のてのひらの
数倍温かかったのだ。その一瞬だけ、取り残されていくのは自分である
気すらしたのだった。少しずつ下がっていく体温をきっかけにまるで現実に
引き戻されるようだった。


きっと自分は祖父には
もうそれ以上伝えるべきことがなかった
そう思う。それはもう十分にこれまで
託された時間内にやってきたことだったから。
あるいは半身不随になり、良性痴ほう症が
進むにつれて、疎通されるべきことがらは
その時その時伝えるのに精一杯だったからかも
しれない。

ではモルモットはというと、彼には無論
言い残したことはなかったと思う。
最初から、食用レタスをあげたり、両手で持ち上げて
じゃれてみたりしたところで果たして彼に対する
愛情が伝わっていたかどうかは知る由もないのだから。
では悲しかった理由は。

それはおそらく彼がいつもの様子ではなく、
上記のような、見るに耐えない非常な有様で
命を引き取ったからだろう。それは一見フリークショー
のようなおぞましさすら伴った。やはりそれが辛かったし、
それよりも彼を囲んでいた自分の家族が、今までは彼を
育て、保護し、ある程度は生き方を規定・保証・確立して
きたのに対し、死に至となると自力では何もしてあげられる
ことができない悲痛さと非力さに直面して悲しんでいたのを
見る方が辛かった。
ついつい自分よりも小さな動物なり下等な生き物だから
なんらかの手だてを踏めば自分の手で、今まで通りに
その生き方を左右させることが出来ると思い込んでしまうけれど
そんなことはない。そんなことは決してない。


肝心なことは二つ___________________________
一つが 全てを伝えることが出来なかった別れほど悲しいものはない
二つが 身の回りの愛している人達が悲しむこと程悲しいものはない

でも仮に、「伝えること」が完全に伝える相手のために
やることだったとすると、前者は、相手に伝えてあげることが
できなかったから悲しい、ということになる。相手の悲しみ。

そうすると、悲しみとは、ひょっとしたら
決して「自分のもの」ではなく、自分の周りに対する 

ホカノヒトの悲しみ  なのか。。
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by eclipseted | 2005-10-09 10:04 | [発insights想]
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